ソウル・オリンピック柔道95kg超級金メダリストの斉藤仁さんが亡くなりました。
斉藤仁さん逝去
柔道の五輪金メダリストで日本男子重量級の一時代を築き、全日本柔道連盟(全柔連)強化委員長の斉藤仁(さいとう・ひとし)氏が20日午前2時56分、肝内胆管がんのため大阪府東大阪市の東大阪市立総合病院で死去した。54歳。青森市出身。
斉藤氏は1984年ロサンゼルス、88年ソウル五輪の95キロ超級を2連覇。世界選手権では83年のモスクワ大会で無差別級を制した。国内では山下泰裕氏(現全柔連副会長)の好敵手として激闘を繰り広げ、体重無差別の全日本選手権は83年から3年連続決勝で挑んで敗戦。88年に同選手権で初優勝した。
89年に現役引退後、母校の国士舘大監督などを歴任。2004年アテネ、08年北京五輪で日本男子監督を務め、12年11月に全柔連強化委員長へ就任した。13年1月には女子日本代表における暴力指導などの問題が発覚。当時の指導陣が一掃されるなど大揺れの中、柔道界再生と強化現場の立て直しに向けて尽力していた。
驚きました。まだまだ若いですよね。胆管がんというとこで、かなり悪い種類のがんだったようですが、病気で療養されていることすら全く知りませんでした。
斉藤仁 まとめ
- 1961年 青森市生まれ
- 国士舘高校2年時にインターハイ団体優勝
- 国士舘高校3年時にインターハイ個人準優勝、団体は連覇
- 国士舘大学1~3年時にジュニア3連覇
- 国士舘大学1年時に全日本学生準優勝 決勝の相手は山下泰裕
- 1982年 選抜体重別2位 決勝の相手は山下泰裕
- 1982年 嘉納杯2位 決勝の相手は山下泰裕
- 1983年 全日本選手権2位 決勝の相手は山下泰裕
- 1984年 全日本選手権2位 決勝の相手は山下泰裕
- 1984年 ロサンゼルスオリンピック95kg超級 金メダル
- 1985年 全日本選手権2位 決勝の相手は山下泰裕
- 1988年 全日本選手権優勝
- 1988年 ソウルオリンピック95kg超級 金メダル
山下泰裕に一度も勝てなかった
斉藤さんは、山下泰裕氏に8回挑みました。文字通り大きな壁で、何度ぶつかっても跳ね返されました。結果、8戦8敗。
ただ、最後の勝負となった1985年の全日本選手権決勝。この勝負は、斉藤さんが勝っていてもおかしくない試合でした。支え釣り込み足を返した場面は、最低でも有効、見方によれば一本でもおかしくありません。
日本柔道を救ったソウルオリンピック
ソウルオリンピックの柔道競技は、日本は最終日の前まで金メダル無しの異常事態でした。日本人選手が弱かったのではありません。びっくりするほどの異次元の審判の判定。私は当時高校生でしたが、毎日テレビの前で唖然としていたのを未だに覚えています。
最終日に登場した斉藤さんは、ロサンゼルスのときのような圧倒的な強さではなく、泥臭い柔道で一つ一つ勝ち上がります。準決勝では地元韓国の選手と対戦し、見事に勝利しました。この韓国の選手、実は1985年に世界選手権で対戦し、反則ギリギリの技で脱臼させられた相手でした。決勝も東ドイツの選手に優勢勝ちし、見事に金メダルを獲得。屈辱の「金メダル0」を瀬戸際で救いました。
引退後は指導者としても活躍
選手として輝かしい結果を残した斉藤さんは、引退後は指導者としてもすばらしい活躍をされました。国士舘大学の監督として、全柔連強化ヘッドコーチとして、アテネ五輪、北京五輪の柔道男子監督として、柔道の発展に大いに貢献されました。
私たちにできること
「ご冥福をお祈りします」という、おきまりの台詞では締めくくりたくないですね。日本の柔道が復権し、再び世界のトップとして君臨することが、最大の供養になるのではないかと思います。
私たちにできることは、トップ選手になるかもしれない少年や高校生に正しい柔道を教えること、よい素質を持った選手が柔道をやりたいと思うように柔道の魅力を伝えていくこと、だと思います。