わたしの日常に価値はありますか?

対偶の真偽のお話について解決させましょう

先日の対偶の真偽についてのお話を解決させます。

https://hiro365.tarohiro.com/2016/03/24/taigu/

対偶の真偽

このお話は、前回の記事の解答、解説です。

前回の記事を読んでいらっしゃらない方は、先に読んできてくださいね。

https://hiro365.tarohiro.com/2016/03/24/taigu/

それでは、広告を挟みます。

    それでは本題

    それでは本題に入ります。

    「怒られなければ勉強しない」という子がいる。

    つまり、ある子どもについて、「怒られない ⇒ 勉強しない」が真であるという状況です。

    この命題の対偶は、「勉強する ⇒ 怒られる」であり、これも真であることになります。

    これは、何がおかしいのでしょうか、という内容でした。

    時制

    数学では、三角形ABCが二等辺三角形だったら、その問題のあいだはずっと三角形ABCは二等辺三角形です。

    特別な条件があれば別ですが、途中で正三角形に変わったりはしません。

    二等辺三角形「である」です。二等辺三角形「となる予定」ではないし、二等辺三角形「だった」でもありません。

    つまり、数学の議論では現在、過去、未来といった「時制」を意識することが全く無いんですね。

    時制を考えたら解決した

    この問題、時制を考えたら解決したんです。

    「勉強する ⇒ 怒られる」ではないんですね。

    怒られなければ勉強しない彼が、今机に向かって勉強している。そうか、怒られたんだ。

    そう、つまり「勉強している ⇒ 怒られた」と解釈するべきなんですね。

    いかがでしょうか。

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